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もしもし

どこかに行きたいなあという気持ち。
でも毎朝の電車から見る、八王子までの風景は、何度みても、何度繰り返しても、やっぱり美しい。

なりたい自分を、考えて考えて、はたと気がついたことは、
私は誰かの「許可」を待っているんだなあということ。

○○と名乗ってもいいですよと、
あなたは○○なんですよと、
見えない誰かの「許可」を待っているんだなあということ。

さすがに20年を超える年月を生きてきて、
今更好い加減、そんな「誰か」はいないのだということも、もうわかるのであるよ。

「誰か」は、いない。
「誰か」はいないのだから、許可を待っているのなら、永遠にわたしは、なりたい自分とやらになど、なれないです。

だからねー。
考えて、あーとひらめいて、ほっとしたんだけど、

なりたい自分に、いま、ここで、なればいいんだなと。

いま、ここで、始めたらいいんだなと。

それは誰の許可もいらない。
どういう道程を辿ることを選ぼうが、それは、誰の許しもいらないんです。

わたしが、そうしたいのならば、そうしたらいい、そういう自分に、なればいい。

不快なことにかかずらってる時間の余裕て、もう多分、ないんだよね。
不可避な出来事はどうしたってあるから、だとすれば尚のこと、いま、心地よくない自分でいるこの時間は、誰の許可を待っているんだろうか?

仮に誰かに許可をもらえても、そこからまだ、生きてゆかねばならぬのよ。
許可をもらえたその「先」を、めでたしめでたしで手放させてくれるほど、
神様は、甘くはないんだなあ。

自分の内なる神様に問うよ。
おいおい神様、どうでしょうか、ここらでいっちょ、不快な思いをしている自分から、さよならしてみますので。


レッテルは、甘んじて受け容れます。
わたしが世の中から認識される言葉としての、様々なレッテルは、甘んじて受け容れます。

でもやっぱり、わたし、心地の良いことを、希求したいのです。

「普通」ということを希求することは、わたしには荷が重過ぎました。

「普通でない特別なもの」ということを希求したいわけでも、ありません。
それもわたしには、荷が重過ぎました。

わたしは、「普通」にも届かない、「普通でない特別なもの」にも届かない。

「普通」であろうと努めることも、「特別なもの」を装うことも、わたしにとっては等しく、居心地が悪いのでありました。

もしもし、神様、きこえていますか。
居心地が悪いものとは、時間をかけて、さようならをします。
身体を居心地よくしておくことを、そろそろ求めても、いいと思ったんです。

世の中の大意をつかむ、平易な言葉は、やっぱりどこがしか「真実」だと思います。
世界の情勢があって、同時代に生きる数多の人の無意識が、重なって重なって、あたらしい「価値感」を求める。

わたしも、この時代を生きる人間で、そしてこの時代に死んでいく人間です。

いま、わたしは、居心地のいい自分になりたいという、価値観をみつけました。
ありのー、ままのー、って、やつです。


「普通」でも「特別」でもなく、ただただひたすらにわたしの中でしか測り得ない、価値観です。

はじめて自分で尺度を持ったのかもしれないです。
わたしはわたしを心地よくしてやりたい。
心地よく生かしてやりたい。
それがわたしがみつけた、「地図」です。


さえぐさ